炭都・宇部の歴史を今に伝える、日本初の石炭記念館
石炭記念館ブログ
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- 石炭記念館 見どころ紹介!⑧ 「宇部炭田の発明品[その4]~改良ツルハシ~ 」(06/04)
- 屋外展示場にある「人車」がこのたび修復されました!(05/13)
- この度、市制施行100周年記念式典において当館にゆかりのある方々が市政功労者として表彰されました(11/02)
- 石炭記念館 見どころ紹介!⑦ 「宇部炭田の発明品[その3]~牛蒡木固~ 」(06/20)
- モデル坑道完成50周年!(10/30)
- 石炭記念館 見どころ紹介!⑥ 「宇部炭田の発明品[その2]~蒸枠~ 」(06/12)
- 石炭記念館 見どころ紹介!⑤ 「宇部炭田の発明品[その1]~南蛮車~ 」(05/16)
- 石炭記念館 見どころ紹介!④「木下幸吉さんと炭鉱(ヤマ)の歌」(05/08)
- 石炭記念館 見どころ紹介!③「モデル坑道」(05/01)
- 石炭記念館 見どころ紹介!②「展望台[その2]~ 展望デッキ編 ~」(04/24)
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石炭記念館 見どころ紹介!⑧ 「宇部炭田の発明品[その4]~改良ツルハシ~ 」
投稿日:2023年06月04日
ゆったりとしたペースでちょこちょことご紹介している「石炭記念館見どころ紹介!」シリーズ。
今回は宇部の先人たちが知恵を振り絞って生み出した装置や道具をご紹介する「宇部炭田の発明品」の第4弾ということで、「改良ツルハシ」についてのお話しです。
そもそも「ツルハシ」とは何かというと、先端がとがったかたちをして、固い土砂などを掘るときに使われる道具です。
ちなみにその名前の由来は鶴のくちばしに似ていることからなんだそうです。
ツルハシは石炭を掘るときにも使われており、炭鉱で働く人たちにとって大事な道具でした。
しかし、ツルハシをずっと使い続けると、先がすり減ったり、あるいは固いところに打ち付けると先がつぶれたりして使えなくなるため、坑口の近くにあった鍛冶屋さんに持って行って調整してもらう必要がありました。なので作業現場で使えなくなったときに備えて、常に4~5本ほどのツルハシを担いで坑内に下がっていました。
そのようななかで登場したものが「改良ツルハシ」です。改良ツルハシは文字どおり、従来のツルハシを改良したもので、先(穂先)が取り換えられるようになっていっていました。
これにより現場でツルハシが使えなくなっても古い穂先を外して、新しい穂先と交換すればまた使えるようになるので、わざわざ予備のツルハシを4~5本も持っていかなくても、ツルハシ本体(親ヅル)と穂先をいくつか輪っかに通して持っていくだけで済むようになりました。
その後、改良ツルハシが坑内ツルハシの主流として使われるようになっていきましたが、実はこの改良ツルハシは宇部で発明されたものと言われています。
誰が、どのような経緯でなど詳しいことはわかりませんが、古くから宇部で考案されたものと伝わっており、昭和7年(1932年)に、この改良ツルハシの特許を巡って九州のある産炭地から訴えられるという事態が起きた際には宇部側の主張が認められ、逆に勝訴したという出来事が当時の新聞記事に残っています。
石炭記念館では2階展示室の「宇部炭田の歴史と民俗」のコーナーで、この改良ツルハシを展示しています。
宇部炭田の発明品については長らく「南蛮車」、「蒸枠」、「牛蒡木固」の3つをあわせて「宇部炭田の三大発明」としていましたが、「改良ツルハシ」も宇部炭田の発明だというお声をいただくこともあり、石炭記念館ではここ数年、改良ツルハシも加えて「宇部炭田の四大発明」としてご紹介をしています。
普段は触ることができませんが、団体さんなどで館内ガイドを事前に申請していただいて、なおかつ時間に余裕があったりするときは、実際にツルハシと改良ツルハシを実際に持ち比べてもらうというのもやっていたりしています。
それぞれ持ち比べてもらうと「ツルハシを4~5本持っていくのは大変そう」とか、「改良ツルハシだと(通常のツルハシより)楽だね」といった感想をいただきます。
対応できる時とできない時とありますので、今後、石炭記念館を訪れた際に触れる機会がもしあったら、ラッキーだと思ってください(笑)
これまで「石炭記念館 見どころ紹介!」では宇部炭田から生まれた4つの発明品をテーマにご紹介してきました。宇部と同じく産炭地であった(産炭地である)他の地域も同様かと思いますが、炭鉱開発を進めるにあたっては決して平坦な道のりではなく、石炭を掘る過程や運び出す際、坑内の保安やその土地ならでは問題などなど多くの苦労がありました。そうした障壁を炭鉱人たちは創意工夫しながら乗り越えて石炭産業が発展してきたわけです。こうした発明品を見ていると、炭鉱人たちの高い知識と技術力を感じることができます。
屋外展示場にある「人車」がこのたび修復されました!
投稿日:2022年05月13日
普段、見過ごされることも多いですが、石炭記念館の出入口前の前庭には屋外展示場があります。
ここでは宇部や大嶺炭田(美祢市)の炭鉱で実際に使われていた矢弦やランカシャーボイラーなど12点の大型機械が展示されているほか、石炭の原木と呼ばれている植物「メタセコイア」が植樹されていたり、宇部炭田の発展に寄与した発明品である「南蛮車」や「蒸枠」に関連する石碑などもあり、見ごたえ十分の場所です。(※宇部炭田の発明品である「南蛮車」や「蒸枠」のことについてはこのブログでも以前、ご紹介しています。)
しかし、屋外展示場という場所ゆえに日々の雨風や落ち葉がたまるなどして展示物が汚れたり、傷んだりと問題をかかえています。
そんななか、石炭記念館の出入口の一番近いところにある「人車」を有志の方の手によって修復していただけることになり、つい先日、修復作業を終えて戻ってきました。
人車とは、炭鉱などの鉱山で労働者を運ぶ鉄道車両のことで、石炭記念館に展示されている人車は美祢市にあった山陽無煙鉱業所で使われていたものです。1969年(昭和44年)の石炭記念館の開館以来、この場所でずっと展示されてきましたが、長年、風雨にさらされたことにより、車体のところどころには錆が浮き出し、床の鉄板はボロボロになるなど傷みが年々激しくなっていっていました。
今年の3月初旬、およそ半世紀ぶりにこの場所から運び出されていた人車は、さび落としや古い部材の交換などを経て、現役時代に近い姿に甦りました。
■修復前
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
■修復後
現在は第2弾として、同じく屋外展示場にある「坑内石炭運搬車」の修復が始まっています。詳細はこちらの修復の様子もあわせて後日、お伝えできたらと思っています。
この度、市制施行100周年記念式典において当館にゆかりのある方々が市政功労者として表彰されました
投稿日:2021年11月02日
1921年(大正10年)11月1日に誕生した宇部市は今年、100歳となりました。
昨日11月1日、その100歳を祝って行われた市制施行100周年記念式典では、永年にわたり市政の各分野で活躍、貢献された61名と8団体の方が表彰され、当館の炭鉱の語り部ボランティアとして活動されている木下幸吉さんと、宇部の炭鉱を後世へ伝える活動をされている炭鉱を記録する会が市政功労者(共に産業功労)として表彰されました。
木下幸吉さんは、宇部の主要炭鉱であった東見初炭鉱と沖ノ山炭鉱で閉山までの21年間勤務され、宇部の数少ない炭鉱遺産である「沖ノ山電車竪坑櫓」(昭和38年建設)建設の際には建設班の一員として工事に関わりました。2014年(平成26年)からは「炭鉱の語り部」として、毎週月曜日に当館に通われ、坑内機電係員として得た知識と確かな記憶力、経験に基づいた解説で多くの人を魅了しています。
また、炭鉱勤務の傍らで短歌を始めるなど歌人としても活動され、現在、宇部短歌協会の会長として後進の育成にも尽力されておられますが、木下さんが詠まれた炭鉱をモチーフにした短歌は、坑内の様子や炭鉱機械の迫力などが写実的に表現されていることから、石炭記念館ではこれらの短歌のなかから33首を「炭鉱(やま)の歌」として、展示物とあわせて観賞できるようにしており、石炭記念館をより深く楽しむための重要なツールとなっています。
炭鉱を記録する会は、市が発行した2冊の山口炭田炭鉱写真集『炭鉱 戦後五十年の歩み』(平成7年発行)及び『炭鉱 有限から無限へ』(平成10年発行)をきっかけにして、これらの本の編集委員で、沖ノ山炭鉱や西沖ノ山炭鉱、美祢市にあった山陽無煙鉱業所に永年勤務され、沖ノ山電車竪坑遺構の保存や石炭記念館前にある宇部炭田発祥の地記念像の建立にも関わった浅野正策さん(初代会長)が本の発行だけでなく、宇部の発展の原点である炭鉱を後世に語り継がなければと他の炭鉱経験者にも声をかけて、1998年(平成10年)に結成されました。
その後、2002年(平成14年)には炭鉱写真をデータベース化した「炭鉱とわが町」や、炭鉱で使われた言葉たちを解説した山口炭田炭鉱用語集『炭鉱の言霊』を編纂したほか、石炭記念館での講演会、次世代を担う子どもたちへのガイドやイベントなどを通じて宇部の炭鉱の歴史を伝える活動を行なっています。
現在でも月に1回、勉強会を開催しており、80~90歳代の炭鉱経験者から炭鉱を知らない30代までの幅広い世代の会員が所属して会員間における炭鉱の記憶や歴史の継承、炭鉱関連の研究なども積極的に行なわれています。
また、拠点の1つとなっている当館の展示や調査研究、イベント等において助言をいただくなど、石炭記念館の運営にも必要不可欠な存在です。
宇部市は炭鉱によって発展したことで100年前、宇部村から町制を経ずに一躍、市となりました。今回、市制施行100周年というタイミングで、炭鉱の記憶を次世代へとつなげるために精力的に活動されている方々が表彰を受けたことは大変嬉しく思います。
宇部から炭鉱の灯が消えて久しいですが、今後もこうした取り組みを続けて来られている皆さんの活動の一助となれますよう、石炭記念館も新たな気持ちで頑張っていきたいと思います。
ちなみに石炭記念館の開館日も11月1日で、宇部市と誕生日が同じです。なので昨日、石炭記念館は52歳となりました!
100歳にはまだまだ届きませんが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします!!
石炭記念館 見どころ紹介!⑦ 「宇部炭田の発明品[その3]~牛蒡木固~ 」
投稿日:2021年06月20日
かなり久しぶりの投稿となりました、この「石炭記念館見どころ紹介!」シリーズ。
今回は宇部の先人たちが知恵を振り絞って生み出した装置や道具をご紹介する「宇部炭田の発明品」の第3弾ということで、「牛蒡木固(ごぼうきこ)」についてお話しします。
牛蒡木固は坑内に海水浸入の兆候が見られた際に、いち早く海水浸入を止めるための簡易の防水ダムの一種で、海底炭鉱であった宇部の地質にあった独特の防水技術です。
石炭記念館では、2階の「いのちを守った道具たち」のコーナーで、12分の1のサイズの牛蒡木固の模型を展示しています。
しかし、この「牛蒡木固」が、どういった状況で、どのような機能を果たしたのか、これを口頭や文章だけで説明するのは、とても難しい・・・。
そこで、できるだけわかりやすく説明できればと、実際に牛蒡木固の現場に関わった方のお話を参考に、牛蒡木固ができるまでの仕組みをイラストにしてみました。
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①
まず、坑内で浸水の兆候を見つけます。このとき、出ているのは水だけでなく、一緒に泥土も流れ出ている状態です。
繰り返しになりますが、宇部は海底炭鉱であり、海の下に埋蔵している石炭を採掘していた地域です。そのため、初めのうちは少ない量の水であっても、このまま放置していると、天盤のはるか上の方に、流れ出た泥土の分だけ空洞ができ、やがて大きな空洞となり、ついには海水が浸入して大出水事故へとつながってしまう恐れがあります。
②
そこで出水している場所にまず井形に坑木(空木固[からきこ])を組んで天盤を支えて、その後に植物の羊歯(しだ)を坑道にぎっしりと詰め込みます。
そしてさらに、坑道と平行に節くれがなく、できるだけ真っすぐな坑木をハンマーで打ち込んで坑道を塞いでいきます。ちなみにこの坑木が野菜のゴボウに似ていることから「牛蒡木固」の名まえが付けられたと言われています。
③
この羊歯の層と坑木の層を3~4層ほど、繰り返し作ってから、最後に閂(かんぬき)を構築して、坑道にぎっしりと詰め込んだ羊歯や坑木が動かないように固定します。
④
こうすることで、泥土を含まない澄んだ水だけを通し、泥土はその場に留めさせて、流れ出るのを防ぎます。
⑤
そのうちに水が浸入していた亀裂などに泥土が自然と詰まり、やがて海水の浸入が収まります。
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この牛蒡木固がいつ、誰によって発明されたのかはわかっていませんが、明治45年から昭和21年までの間に、海水浸入の前兆があって早期に閉塞した水災事故66件のうち、この牛蒡木固によって未然に浸水を防いだものが42件あるそうです。(参考文献『炭鉱 有限から無限へ』)
宇部の炭鉱が本格的に海底に眠る石炭の採掘に挑みはじめたのが、明治の中頃からになるので、おそらくこのころ、海底炭鉱の開発を進めていく過程で考案されたのでしょう。
前にご紹介した「南蛮車(なんば)」や「蒸枠(むしわく)」などもそうですが、宇部炭田の歴史は、水との戦いの歴史でもあったのです。
また、これらの3つの発明品をあわせて、「宇部炭田の三大発明」と言われることがありますが、実はもう1つ、宇部炭田で発明されたものがあるんです。
そのもう1つの発明品についてはまた次回、ご紹介したいと思います!
モデル坑道完成50周年!
投稿日:2020年10月30日
本日、2020年(令和2年)10月30日は、石炭記念館のモデル坑道が完成してちょうど50年となる日です。
このモデル坑道は宇部の海底炭鉱の採掘現場を中心に、ほぼ実物サイズで再現した場所です。ここでは、採掘の最前線の現場である採炭切羽のほか、木枠や鉄柱、コンクリート坑道といった天盤を支える坑内支保の種類など、さまざまな坑道のつくりを見ることができます。また、なかに設置されている機械や機材は実際に炭鉱で使用されていたものです。
1969年(昭和44年)11月1日に日本初の石炭記念館として開館し、昨年、開館50周年を迎えた当館ですが、開館したときには、まだモデル坑道は存在していませんでした。ただし、石炭記念館建設計画の初期からモデル坑道の構想はあったようで、その翌年の1970年(昭和45年)4月1日には、石炭記念館建設の第2期工事としてモデル坑道の建設がスタートしました。
下の2枚の写真はその際に行なわれたモデル坑道工事の起工式を写したと思われるものです。
2枚目の奥にはすでに完成している石炭記念館の建物が見えます。
その後、工事の一部変更や物価の上昇などによる資金不足、悪天候のため工期が遅れるなど、さまざまな災難に見舞われましたが、市民や市内企業から追加で支援を得て、予定より1ヶ月遅れの1970年(昭和45年)10月30日にモデル坑道は無事、完成しました。
石炭記念館の展示室などは平成の初めごろに行なわれた大規模リニューアルによってレイアウトが大きく変わっているところもありますが、モデル坑道の完成当時の写真を見ると、照明など小規模な変更はあるものの、基本的にはほぼ変わっていないようです。石炭記念館のなかで開館当初の姿をとどめている場所ではないでしょうか。
宇部炭田閉山から今年で53年。現在、宇部の海底炭鉱の坑内に入れる場所はもちろんありません。なので、再現したものではありますが、ここが宇部の海底炭鉱の内部を知ることができる唯一の場所です。
内部に展示している炭鉱機械や機材もそうですが、このモデル坑道自体も宇部の炭鉱を後世へ伝える貴重な遺産だと言えるでしょう。